途中ぼく石

春めく季節。必須だったマフラーもしまい込んで、上着も風になびく春物に。手袋の要らなくなった暖かい陽光の下、想いの通じた彼氏と彼女が桜のように赤くなりながら手を重ね微笑み合う。そんな物語の終わりに合わせて空いた窓から流れ込む小説と同じ春めいた風。桜の花びらが教室に舞う。味気のない茶の机にはらりと舞い落ちる桜は、ひとひらだけで平穏な日常を変えてしまう魅力を持っている。俺もいつか運命の扉を見つけて恋をして、そして今とは違うホントの気持ちで桜を見れるのだろうか。とても良い小説だった。今すぐ誰かと語り合いたいような、胸の中でこっそり秘めておきたいような、そんな初恋みたいな小説。英二に貸したら読んでくれるだろうか。ブックカバーをなぞる。もう一度最初から読もう。薄く触り心地の良いページを指の腹で捲る。物語を全て知って目の当たりにする目次は壮観だ。そんな目次を過ぎれば、主人公の少女が彼氏彼女の帰り道を一人歩く様子が描かれた一小節に出会う。少女は恋なんてまっぴらだと足早に歩いている。けれど、俺はそんな少女が彼と出会い恋に落ちる事を知ってしまっている。大丈夫さ、君の元に桃色便りはもうすぐ届く。なんて、少しお節介が過ぎるか。左端まで堪能して、また右上から物語を見守る。そして正面から聞こえてくる小説の登場人物ではなく俺の名前を呼ぶ声。珍しく部活の無い放課後。清掃は既に終わっていて、俺は誰も居ない教室で没入していた。ガラガラと音を立てる扉にも気付かなかったのだろうか。少し恥ずかしいな。
「ごめん」
「う、ううん、大丈夫……あ、あのね、あ…えっと…大石くんっ」
「うん」
彼は、クラスメイトのぼくくんだ。少しシャイな彼は、頬を染め指先をもじもじと動かしながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。ああ、まるでこの小説の彼女が告白をするあのシーンみたいだ。
「す、す……」
「す」から始まる言葉、今は好きしか思い浮かばないなぁ。あ、数学かもしれない。それとも水曜日に何かあるのだろうか。水泳、スポーツ、スイカ割り…いずれにせよ「好き」は突飛すぎるな。
「好きです!」
「え」
突飛が胸を圧迫する。肺から漏れ出た声は実に情けのないものだった。ぼくくんに代わって、俺が言葉が紡げなくなる。いや、好きと言ってもクラスメイトとしてだという可能性は十分にある。頬を染めるのは早計だ。解っては居るのだが、どうしてだろう。ドキドキドキドキと、心臓がうるさい。真剣な眼差しのぼくくんの顔が見れない。これじゃあどっちが勇気を出して告白したのか分からない。
「もし、良かったら…ぼくと付き合ってください!」
「付き合う…」
ぼくくんの言葉を反芻する。小説の中で二人が行った水族館の情景も反芻する。幻想的で穏やかな水族館に、大好きな彼女と二人で…
「きっと大石くんは、ぼ、ぼくとじゃなくても幸せになれる…けど、ぼくは大石くんじゃなきゃ、大石くんが良いんだ!優しくて、格好良くて、え、笑顔の可愛い大石が…大石くんがぼくの青春の全てなんだ!」
「ぼくくん…」
恋に憧れきった俺の心に、ぼくくんの告白が火種となって、胸のどこかが燃え上がりはじめたのが分かった。考えさせて欲しい、ちょっと時間が欲しい。そんな事が紡げないほど、目の前のぼくくんが運命に思えた。俺の頭の中では、すでにぼくくんと水族館に行ってしまっている。隣り合って映画も観に行きたいし、プラネタリウムも行ってみたい。
「こんな俺で良ければ…」
そう紡いだ瞬間の、ぼくくんの見たこともないような嬉しそうな笑顔。本当に俺のことを好いてくれているんだ。そう実感せざるを得なくて、どうしよう。すごく嬉しくて、可愛く見えて、顔から火が出てしまいそうだ。
こうして俺は、恋に落ちた。机に載っていたはずの桜の花びらは、何処かへ行ってしまっていた。きっとあの花びらは、ぼくくんの想いそのものだったのだろう。なんて言うのはメルヘンチックすぎるって英二に馬鹿にされるかも。俺はとにかく初めての結ばれた恋に浮かれていた。ぼくくんの上履きの下、綺麗な色を踏みにじられている花びらなんて知らずに。

しかし、日常というのは案外変わらないものだ。俺は部活や委員会で放課後はほとんど埋められているし、今までと変わった事といえば図書室でぼくくんと並んで勉強をするくらいだった。それでも俺は楽しかった。帰ってからぼくくんと電話をするんだと考えるだけで、部活も勉強もいつもの何倍もやる気が漲った。恋人と言うよりは今までより更に仲の良い友達になれたという感じだが、それでも嬉しかった。けれど、付き合ってからはじめての予定の無い休日がもうすぐやってくる。俺はやっぱり水族館に行きたい。でも、どこでも良い。きっとどこでも楽しいに決まっているからだ。隣で数式を解くぼくくんをちらりと伺う。解き終わったら話しかけよう。
「ぼくくん、今週末なんだけど…も、もし良かったら遊ばないか?」
「う、うん…!遊ぼう!やったぁ!ついに…」
ほっと胸を下ろす。こんな些細な提案だけでこんなにドキドキするのだから、告白してくれたぼくくんは一体どれだけ心臓に負担をかけて伝えてくれたのだろう。そう想いを馳せるだけで、ぼくくんがより一層愛おしく見えてしまう。
「それで場所なんだけど、行きたいところとかあるかな?」
「お、大石くんの家は…ダメかな?」
「え、俺の家?」
まったく予想外の提案に、少し思考が止まる。そうか、そう言えば俺たちお互いの家にも行った事が無いんだ。付き合う前は家族構成すら知らなかったし、そうだな。遠出をする前にまずはお互いのことをよく知るべきだ。
「うん、そうしよう。帰ったら遊んでも大丈夫か聞いてみる」
「うん!お家の人が居てもぼくは平気だよ」
「そうか。ならきっと大丈夫だ」
顔を合わせて笑いあう。それだけで胸が震えるほどに幸せだ。こんなにも週末が楽しみになるなんて、やっぱり恋というのは凄い。

「わ、大石くんの部屋すっごい広いね」
「はは、そうかな」
そう、実はなるべく寛げるように模様替えをした。服も今日のためにお小遣いで買った。完全に浮かれすぎだ。今日は家で遊ぶだけ、友達と何も変わらない。分かってはいても、浮かれる心を抑えることはできなかった。けれど、ぼくくんが指摘してくれるだけでかなり報われたな。
「じゃあ、飲み物とか用意するね。寛いでてくれ」
「あ、うん。そんな、お構いなく!」
リビングではお母さんと妹が紅茶を飲んでいた。俺も紅茶にした方が良いかな。そう言えばぼくくんに何が良いか聞くのを忘れてしまった。わざわざ聞きに戻るのも何だかちょっと恥ずかしい。とりあえず紅茶と、オレンジジュースの二つを持って行ってどちらが良いか聞こう。
「秀一郎、このあと二人でクッキーを焼くのだけど、お友達は好きかしら。持って行っても良い?」
「ありがとう。うん、出来上がったら呼んで」


(んなー?!ここで終わりかよー!!!!!!)